2026年1月4日
「それは、彼らの目を開いて…聖なる者とされた
人々と共に恵みの分け前にあずかるようになる
ためである。」 (使徒言行録26章18節より)
“恵みの分け前”とは“相続分”(コロサイ1:12)の事で、神の国の莫大な財産、富を意味します。パウロはアグリッパ王以下、町の有力者達の前で自分の回心体験を語りましたが、その折に復活の主から賜わった新たな使命は、ユダヤ人と異邦人(全人類)と恵みの分け前(神の国の財産=罪の赦し、永遠の命)を分かち合う事であると告げました。地上の教会も自分達が受け継いだこの財宝を世の1人でも多くの方々と共に分かち合える事を心から願っています。“受けるより与える方が幸いである”(使徒言行録20:35)との御言葉に励まされつつ、自分達が先人方から受け継いだ神の国の富(金銀ではなく)を“お裾分け”する為執り成し祈り、仕えています。“恵みの分け前に与る”とは、“天に宝を積む”(マタイ6:20)事でもあるのです。主の死と甦りによって約束された罪の赦し、永遠の命をこそ分かち合いたく願います。
牧師 桑原睦彦
2026年1月11日
「つまり私は、メシアが苦しみを受け、また死者
の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を
語り告げることになると述べたのです。」
(使徒言行録26章23節)
パウロの話は途中で中断されたようです。“主イエスが死者の中から最初に復活された”と聞き、慌てた総督フェストゥスが大声で話を中断させたからでした(24節)。これ迄パウロは自分の半生を顧み乍ら主イエスを証しして来ました。主イエスを語るには、十字架に死なれただけでなく復活された事迄伝えねばなりません。主イエスは死んで甦られればこそ旧約の昔から預言され続けて来たメシア(キリスト=救い主)であるのです。その証人の1人でもあったパウロが語り告げた福音は、その後代々の教会に受け継がれ“希望の光”として語り継がれて行きました。キリストの福音は今や教会に託され、教会が責任を持って世の終わる迄、地の果てに至る迄語り告げて参ります。その働きが正しく担われて全人類と全世界に真実に力ある福音が希望の光となって輝き、1人でも多くの魂が救われるよう心から祈ります。 牧師 桑原睦彦
2026年1月18日
「…王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださ
るすべての方が、私のようになってくださること
を神に祈ります。」 (使徒言行録26章29節)
パウロは列席の人々皆に“自分のように”なって欲しいと語り掛けました。大胆な勧めです。その真意は信仰に導かれて欲しいという事でありましたけれども、果たしてパウロの様な確固たる不動の信仰を私達は持つ事が出来るでしょうか。パウロは良くその手紙の中に“私に倣って欲しい”と書きました(Ⅰコリント11:1他)。余程自分の信仰が確固不動で力があるからこんな風に言えるのだろうと思われるかも知れません。しかしそういう事でなく“自分は神の憐れみ無くしては生きられない罪人の見本として伝道者の務めを仰せつかっているのだ”と言っているのです。その様なパウロに倣うとすれば、私達も又神の憐れみに与ればこそ生かされる自分である事を信じ受け容れつつ歩んでゆく姿に信仰の喜びと感謝が証しされるのだと悟らなければなりません。その意味での“憐れみの器”として立てられ歩んでいるのが教会であるのです。 牧師 桑原睦彦
2025年7月27日
「聖霊は、神の御子の血によって御自分のものと
なさった神の教会の世話をさせるために…。」
(使徒言行録20章28節より)
パウロはエルサレムへと向かう途上でエフェソ教会の長老達に“別れの挨拶”を致します。エルサレム訪問は命を奪われる危険を伴いますし、実際パウロはエフェソで果たすべき務めを充分果たし終えていました。その意味で“もう2度と会うことはあるまい”と告げると、長老達は酷く悲しみ嘆き、泣きました。しかし情に流されてはおれません。これから先、教会が乗り越えてゆくべき試練や困難の大きさを思えば、今どうしても伝えておくべき事があったのです。それは先ず「教会とは何か」であり、「教会を牧する働きの大切さ」でした。教会は神が御子の血によって贖い取られた羊たちの群れであり、そうである限りその群れを牧する働きは必要不可欠です。その“牧する”働きを担う為に、聖霊は牧師や長老をお立てになります。その重責を担う働き人の為、教会は祈りを絶やしてはなりません。大牧者なるキリストに牧されてこそその職務は全うされるのです。
牧師 桑原睦彦