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​​礼拝説教要旨

​「ピラトは、見よ、この男だ”と言った…。」
​ ヨハネによる福音書19章5節
​  (2023年3月26日礼拝説教)

礼拝で歌われる讃美歌の一節に“この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ」と歌われます。主イエスは捕えられ、裁判にかけられました。最初はユダヤ人による“宗教裁判”でしたが、主を死刑に処するにはローマによる法廷が開かれる必要があった為、総督ピラトの下で慌しく二度目の裁判が総督邸で開催されました。通常なら用意されるはずの弁護人も無く、肝心の証人も立てられない中、そこへとなだれ込んで来たユダヤ人たち(ほぼ200人程)の「十字架につけろ」との怒号に押されたピラトは異様な雰囲気の中、実に不当にも十字架刑を宣告してしまいました。ピラトは、鞭打たれ茨の冠をかぶらされた主を指して“見よ、この男だ(この程度の人間に皇帝の名において十字架刑を言い渡す価値などあるか、との意味)”と言い放ちましたが、この“人となり給いし活ける神”であり給う御方でなければ私達人間は罪から贖われず、永遠の命に至る道も拓かれませんでした。全てはこの御方のお蔭です。

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「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは、慰められる。」 (マタイによる福音書 5章4節)

​​​(2022年2月6日 礼拝説教)

主イエスは、‟悲しむ者たちの幸い”も告げられました。普通に考えても、悲しみは不幸・不運であってそのこと自体が幸いであるはずはありません。むしろ悲しみや嘆きの中でこそ私達は罪を犯し、不信に陥るのではないかと思われます。どれ程信仰の歴史が長い人でも、悩みや悲しみに襲われて平然として居られる訳ではないのです。なぜ自分だけが辛い思いをするのか、なぜ自分なのかと思う時、その悲しみや痛みは倍増するのです。しかし主は、いかなる悲しみの中にもご自身の力ある慰めを届けて下さいます。他者がその程度の悩み、苦しみに負けるようでは修行が足りないねと嘲ったり、自分でもこの程度のことでへこたれていては情けないと卑下しても、主はその1つも軽んじたり、さげすんだりはなさいません。全てをご自分の胸にしっかり受け止めて下さり、その上で私達を健やかに立ち上がらせ給う慰めの助力を、具体的に与えて下さるのです。悲しむ者の幸いはそこに生まれます。

開花

​​2022年2月13日 礼拝説教

「柔和な人々は、幸いである、その人たちは、地を受け継ぐ。」 (マタイによる福音書 5章5節)

 

厳しいよりはやさしい方が良く、気ぜわしいよりゆったりの方が好ましく思われるかも知れません。だから主イエスも、‟柔和な人々は幸いだ”と仰ったのだろうと考えるとすれば、このみ言は何と分かり易く思われることでしょう。けれども人は‟やさしさ”だけでは救われず、‟余裕”がそのまま祝福だとは限りません。やさしさがあだとなり、余裕があり過ぎて時間を持て余すことも無くはないのです。‟柔和”とはむしろ‟力”です。人を救い、助け、慰め励ます、力ある柔和こそ幸いであるのです。その‟柔和な力”は何より神の御心に従い、委ね切る心から生まれます。主イエスは、「私は柔和であり謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい」(マタイ11:29)と仰いました。主の柔和さは何より、十字架の死に至る従順です。

花壇

「義に飢えかわく人々は、幸いである、その人た
ちは、満たされる。」 
マタイによる福音書 5章6節

​​(2022年2月20日 礼拝説教)

‟義に飢えかわく者は幸いである”と主イエスは仰います。この義は神の義です。人間が考える義も大切なものですが、それ以上に尊ばれ、学ばれ、重んじられるべき義は神の義です。神の義は、御心に反する罪に対しては裁きとして現れますが、同時にご自分との信頼関係を与える為に独り子キリストが贖いとして十字架に死なれることを良しとし給う義でもありました。その様な神の義を私達は熱心に追い求め、これを飢えかわくように願ってゆくべきであるのです。この世が余りにも利己主義に傾いて自分だけの幸せを確保しようとする時に、義など求めてどうなるものか、正義や愛や平和などきれいごとに過ぎ、無駄ではないかと思われてしまうかも知れません。しかし主は‟あきらめるな、絶望するな”と仰います。あの十字架の死から復活させ給う神の、まことに神ならではの御業を信じなさい、そうすれば義に飢えかわく心も必ず満たされると約束下さいます。

礼拝説教集: あなたも仲間に
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