礼拝説教要旨2025年6月
2025年6月1日
「また、魔術を行なっていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた…。」
(使徒言行録19章19節より)
パウロがエフェソで伝道に励んでいた2年乃至3年の間には、予想もしなかった事も起きました。パウロの働きは目覚ましく、御言葉に伴う奇跡や不思議なしるしも神様がパウロの手を通じ表わされました。それを見たユダヤの祈祷師達が、試しに主イエスの名を語って悪霊を追い出そうとした処、悪霊の反撃を受け散々な目に遭わされるという奇怪な事件も起きました。しかしこれに衝撃を受けたエフェソの人々は、真の神を知り主イエスの御名を崇める様になるのです。それに加え、これ迄魔術やまじないで生計を立てていた者達まで魔術の書物を手放し全て焼き捨ててしまう事さえ起きたのです。この事により、御言葉は益々勢いを広げ力を増して行きました(20節)。これは「主が教会と共に働いて、語る御言が真実である事をしるしによって示された」(マルコ16:20)事の何よりの証しでありました。今もなお聖霊なる神様は教会と共に働いておられます。

2025年6月8日
「…わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない…。」 (使徒言行録19章21節より)
あの劇的なペンテコステ(聖霊降臨)の出来事から20数年後、伝道者パウロは滞在先のエフェソを離れ、エルサレムを経由しローマを訪れる決心をします。当時古代ローマ帝国の中心地であったローマの町に行き、更には地の果てスペイン迄足を伸ばして福音を宣べ伝えたいというのが、パウロの願いであった様に見えるのです。実際彼自身、手紙の中でそうした希望を述べてもいます。けれどもこの様な“伝道の幻”は伝道者自身の願いや思い以上に聖霊なる神ご自身のご意志であり決意でありました。その点を見誤ってしまうと伝道の業も信仰の業でなくなり、単に自己実現の手段になってしまうので注意しなければなりません。ローマに福音が伝えられ信仰の交わりが深められるのは、パウロ以上に神が願い望まれた事であるのです。伝道も教会の働きも、その神のご意志と決意に従い謙虚に仕えるものでなければなりません。神の御心が実現する事が私達の救いとなるのです。 牧師 桑原睦彦
2025年6月15日
「そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。」 (使徒言行録19章23節)
パウロがなおエフェソに留まっていた時のこと、福音がアジア州全域に宣べ伝えられると思わぬ処から教会に対する苦情が飛び出しました。それはエフェソの町を繁栄させていたアルテミスという女神像とこれを御身体と仰ぐ神殿の信仰が、福音と真正面から衝突した為でした。パウロ達は当然偶像礼拝を捨て、イエスを信じなさいと宣べ伝えます。それはアルテミスへの信仰を捨てるだけでなく、諸外国から参拝に訪れる参拝者や観光客が神殿や女神像の模型等の土産物、お守り等を買ってくれる売上げで職人達を始めエフェソの町が豊かな富を得る事に重大な支障が出る事を意味していたのです。そこで、デメトリオという銀細工人が群衆を煽り、教会に対する反対運動を起こします。その為町は大混乱に陥り、収拾がつかなくなりました。これは貪欲や拝金主義という偶像礼拝との闘いでした。福音は“私こそ道である”と仰るキリストなる道に私共を導き、今なお真の神礼拝へと招き続けています。
牧師 桑原睦彦
2025年6月22日
「…群衆はますます激しく“十字架につけろ”と叫び立てた。」 (マルコ福音書15章14節より)
主イエスが“ユダヤの宗教裁判”とそれに続いて“ピラトの法廷”に被告人として立たされた時、その裁判に同席を許された群衆は主イエスに十字架刑をと求めました。ユダヤの権力者達に扇動されたからでありますが、人が群衆化したときの無責任さ、恐ろしさを覚えさせられます。どれ程善人であっても群衆に紛れ込んでしまうと、その勢いに呑まれ我を見失った様になるものです。主イエスはその様な人々の声によって殺されてしまわれました。しかし神様は、私達の目に映る処とは全く別の意図と意志を持ってこの御方が十字架に死なれる事を、私達を救う手掛かりとされました。使徒パウロは解き明かします「神はキリストを通して御自分と和解させ…罪と何の関わりもない方を罪となさいました…」(Ⅱコリント5:18~21)。和解と言う字は“入れ替える”と言う意味の字です。神はキリストの死により私達の罪と入れ替えにキリストの義を賜い、私達をお救い下さったのです。バラバはその象徴です。
牧師 桑原睦彦

2025年6月29日
「そこで町の書記官が、群衆をなだめて言った…」
(使徒言行録19章35節より)
パウロのエフェソでの伝道は、数多くのユダヤ人、ギリシャ人に福音の御言葉を告げ知らせアジア州の教会を生み出す結果となりました。しかし思わぬ困難にも出遭います。町の中心にあったアルテミス神殿とその御神体の女神アルテミスに対する冒涜を疑われ、町中が混乱し大騒動となりました。暴動になりかけた処を町の書記官が群衆を説得し、事無きを得たのです。職務に忠実な1人の公務員の働きで助けられたパウロ達伝道者は、その後も伝道に励む事が出来ました。主イエスも「私の弟子だという理由で、この小さな者(弟子)の1人に冷たい水1杯でも飲ませてくれる人は必ず、その報いを受ける」(マタイ10:42)とお教え下さいました。私達は誰もが神様の恵みに与っています。その恵みに満足せず分かち合う事をしなくなる時、私達の心は貧弱になり諍いも起こしてしまいます。私達が主の弟子として生きるなら、助けを受ける事によっても他者が祝福されて行きます。その幸いを大切にしたいと思います。 牧師 桑原睦彦